明日 ジョン・レノン 命日
あの日、自分は、ある会社の慰安旅行の添乗員として淡路島の洲本温泉の旅館に居ました。
宴会場の準備を見届け、宴会開始まではまだ時間があると自分の部屋に戻り、テレビを付けた。
時間は日本時間の1980年12月9日の18時過ぎだった。
テレビからは「ジョン・レノン」死亡の臨時ニュースが流れていた。
その後の記録はない。
ジョン・レノンがニューヨークの自宅前で撃たれたのは、1980年12月8日23時00分過ぎ。日本時間の12月9日13時00分過ぎのことでした。自分がそれを知ったのは、5時間後でした。
記録を紹介します。
その日の22時50分、スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着した。2人が車から降りた時、その場に待ち構えていた犯人が暗闇から「レノン?」と呼び止めると同時に拳銃を両手で構え5発を発射、4発がレノンの胸、背中、腕に命中し、彼は「撃たれた!
(I'm shot!)」と2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れた。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。
警官の到着時にレノンはまだ意識があったが、既に大量出血し、一刻を争う危険な状態であった。そのため、2人の警官が彼をパトカーの後部に乗せ、近くのルーズベルト病院に搬送した。1人の警官が瀕死に陥っていたレノンの意識を保たせるため質問すると、声にならない声で、自分がジョン・レノンであること、背中が痛いことを訴えたというが、彼の声は次第に弱まっていった。
病院到着後、医師は心臓マッサージと輸血を行ったが、レノンは全身の8割の血液を失い、失血性ショックによりルーズベルト病院で23時過ぎに死亡した。
レノンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」だったという。
事件後犯人は現場から逃亡せず、手にしていた『ダブル・ファンタジー』を放り出し、警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道をあちこちそわそわしながら歩いていた。
彼は逮捕時にも抵抗せず、自分の単独犯行であることを警官に伝えた。
被害者がジョンであることを知った警官が、「お前は、自分が何をしでかしたのか分かっているのか?」と聞いたときには、「悪かった。君たちの友達だっていうことは知らなかったんだ」と答えた。
病院でレノンの死を伝えられたヨーコは「彼は眠っているということ?」と聞き返したという。
後に病院で記者会見が行われ、スティーヴン・リン医師はレノンが死亡したことを確認し、「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させることはできなかった」と語った。
レノンの射殺に関して、事件発生当時はアメリカで軍拡路線のレーガン政権が誕生したばかりであることから、レノンの反戦運動やその影響力を嫌った「CIA関与説」などの陰謀説も推測されたが、公式には単独犯行として結論づけられている。
また、犯人は「レノンの熱狂的なファン」でありストーカー的な犯行だったとも言われるが、実際には彼は特に熱狂的なファンではなかったらしく、現在この説は疑問視されている。
自宅のダコタ・ハウスからすぐのセントラルパークには、レノンを偲ぶ「イマジンの碑」があります。
生きていれば、72歳。黙とう。それでは。
投稿者:森ちゃまat 21:10| お知らせ | コメント(0) | トラックバック(0)