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2012年03月23日

とむらい機関車

大阪圭吉さんは生誕百周年を迎えた本格探偵小説作家です。
その代表作である「とむらい機関車」を合評しました。
2011年5月21日に例会を開催し、参加者は12名でした。


作品自体が、初期の江戸川乱歩と同世代で、昭和10年の作品であり、当会も今回から新たに2名の若い会員のかたも増えて、正直担当者としては、読みにくい、古臭い、わかりにくい等の声も多く聞かれるのではと懸念していたのですが、現代表記に改めてあったこともあり、意外と読みやすかったという反応が多かったように思いました。
作品としては、戦前本格作品ですが、現在の新本格物とは違い、話し言葉主体の作品ではなく、いわゆる説明文が多いのが特徴の作品です。
以下皆さんのご意見を書かせていただきます。(ネタばれもあ
りますが、御了承ください)
◆初めて読む作家の作品。何故、機関車に轢かせて豚を殺すのかという謎から始まって、最後の落ちが犯人の好きだった相手に出あうためという意外性があり、探偵役の戸山助役の謎ときの過程も面白かった。
◆大阪圭吉という名前から大阪弁でかいてあるのかと思った(笑)。内容は読みやすかった。キャラクターも無理が無くわかりやすいので、話の展開も無理がなかった。作者が鉄道マニアということもあり、リアリテイーがあっていい。70年以上前の作品という古さは感じなかった。
◆しっかりした話の構成だった。構成としては、江戸川乱歩や、横溝正史の「鬼火」にあるような、実はこんな話があって、不思議な殺人の死体がでて、ある程度条件をふっておいて、それは実はこうだったというオーソドックスな構成だが、楽しく読めた。
◆作品は古いが、現代表記でるびもふってあり読みやすい。謎の提示も、死体の描写(機関車に轢かれた豚や、人間の死体の描写など)もしっかりかかれていた。
奥の障子から覗く犯人役の女性が、エロチックだと表現しておきながら、陰気な親子だとも書いてあり矛盾した表現になっていたのが気になった。
◆読んでいて、懐かしさを感じた。これがCSIだったら、死体の破片ひとつひとつを拾いあげて、死体現場に番号札をおいて調べるだろうが、そんな時代と違う古きよき時代の
ミステリーというものを感じた。
◆漢字が難しかった(みもちおんな=妊婦)。作
者が電車好きなのがよくわかった作品。金田一耕助の作品のような情景が浮かぶ作品(実際もほぼ近い年代の作品です)。読みやすかった。
◆70年以上前の作品というが、そんな古いものとは
思わなかった。残酷なバラバラ死体や肉片のシーンは怖かった。豚を殺して最後は人へ、犯人の母親も殺してしまうのではと想像して怖い気がした。親子の関係や描写もよく書かれていた。また、他の作品も読んでみたい。
◆この作品については、久しぶりに読ませてもらった。本格ものとして、犯罪の証拠となる花屋のことや、豚を殺した動機など伏線も張られていていい作品。ただ、葬儀の習慣など、昭和初期の風俗や、風習を知らないとできない作品。
犯人の犯行動機のひとつとなった象皮病については、専門的な立場からいわせていただくと、伝染病ではないが予防策を当時の政府はなにもしておらず、犯人の娘のようなある意味不幸な被害者が多かった時代だというのがよくわかった。
◆作者は列車が好きで、列車の描写が好きという印象を受けた作品。豚の死体描写は難しく、起承転結がむずかしかった。
◆江戸川乱歩以前の作家ということで、名前だけは知っていて、作品ははじめて読んだ。豚をどうやったらつないでおけるのかとか、何故、豚を殺さないといけないのか、何故豚でないといけないのか、ホワイダニットのミステリだが、今の新本格の作家なら登場人物の間でディスカッションが行われそう。最初黒豚で次白豚というのに何か意味があるのかと思ってしまった。動機が都市伝説となっている。
◆動機が悲しさをそそる作品。都筑道夫さんによればホワイダニットがモダンミステリだが、「とむらい機関車」にはそれがある。ディスカッションこそはしていないが、「なぜか」をメインにしているのが良い。同じ動機の某ミステリを昔読
んで感動したが、それと同じだと思った。

(補足)何故殺したのが豚でなければならなかったか、豚を殺さないといけなかったのか、これについては、私の私見ですが、以下に述べさせていただきます。

まず豚を殺さないといけなかったのは、娘が恋こがれていた機関手の長田泉三氏を、豚が死んだ際に機関室に飾る葬儀用の花輪を買うために店に来させるためであり、娘に泉三氏をあわせるためであることは話のとおりだと思います。人を殺したのでは、足がつきやすいですし、警察の取り調べもあり、あとがやっかいです。動物の故殺なら昔も今も法律上は器物損壊罪程度ですみます。
それと、何故先に豚を殺して線路に放置しておかなかったか、それでは、事故死というより、最初から作為的に轢かせたとわかり、足がつきやすいとも考えたからではないかと思います。
では、何故、犬や猫ではなく豚でないといけなかったのか、これは、私の想像ですが、ひとつには、犬や猫では、体が小さく、よく見かける通常道路で轢かれて死んで転がっているのとは違い、列車でバラバラにさてもよくわからないこと。
豚は、ある程度体も大きく、組織や肉は人間によく似ているとされ(CSIシリーズでも検視で、死体に傷をつける実験などで、吊るした豚の死体にナイフを指して傷口のできかたを見るシーンがでてきます。)実験に使われています。ですから、誤って轢き殺したのが、あたかも人間であったかのような罪悪感を、話の中で長田泉三氏は持ったのかもしれません。それに、雑食性の豚と違い犬や猫では、菓子でついてこないし、貧しい葬儀屋では、犬や猫に与える肉や魚を買う余裕もなかったのではとも考えられます。
それに、本作品のなかにもあるように、犯人の身近に養豚場が存在し、屠殺用の豚が多くいて、何匹か逃げても目立たなかった
ことも犯人が豚を犯行道具に選んだ動機だと私は思います。
犬や猫では、今も昔も室内で飼うペットですから行方不明になっただけで大騒ぎでしょうから(笑)。
以上は、私なりに推理してみた解答です。この時代の作品は兎角、何故このようなトリックが使われたのか、犯人や作者の意図がわからない作品も多く、本作品も、いまとなっては、天国におられる大阪先生にその真意をお聞きするしかないわけですが、今現在生きているものが、いろいろ想像してみるのもまた楽しいと思います。
それなりに全体の印象として、参加された皆さんには楽しんでいただけたようで、担当者としては安心した次第です。機会があれば、鮎川哲也ものや、「妖婦の宿」など犯人あてを紹介したいと個人的には思っております。(文責Y氏)

投稿者:keita2at 07:10| お知らせ | コメント(0) | トラックバック(0)

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